「我が儘にちゃんと生きるってどういう事?」
我が儘、ではなくて、我がのままでも愛されるよに生きるという意味です。
自分のことを材料にして書いてみます。
20代の頃の自分は無愛想で、いかに自分の中に在るものを表現したら良いのかという事ばっかり考えていました。そして、30歳にセールスマンに転身したときにはいかに自分を抑えて相手の求めるものを提供できるかばかりを考えてやってきました。その結果、体も心も壊れかけました。どっちに極端に行ってもその手段が自分の目的に向かっていなければ苦しいだけで結果はなかなか伴いません。もちろん、そう思い定めて進めばそれは自分の目的になるので、それも1つの選択ではありますが・・・。
そこで別に道を考えると、基本的に「忖度」や「販売誘導の要素」や「第三者に興味を持ってもらう情報」を前提とした発信内容や行動から、より自分の想いややりたい事を中心とした発信や行動に寄せていこう、という事です。
でも、独りよがりな発信や行動はしたくないというのも本音。これが20代の頃とは違う部分で、難易度が上がる要因です。
本音として発信しながらも質の高い内容や行動になる様に、方針や軸を精査しながら自分を磨くしかないわけです。そこにはゴールや終わりは無いので、迷惑な話かもしれませんが、「今の自分はこうだ」という開き直りにも似た感覚を前提に行動するしかありません。常に自分のバージョンアップをしていく責任が必要だし、周りへ押し付けたり批判したりはするべきでは無いので内側に向かいやすいやり方でもあり、自分との戦いになるタイプのやり方です。
客観性と個性主観性
企業的な忖度や購買誘導から生まれる情報より、自分とパーソナリティが近くて客観性を持った人の個人的で主観的な情報の方がより優位性がある情報なのではないかと思います。
そして、人との関係においても似たような事が言えるでしょう。
自分の想いとは切り離した状態での言葉や意見は、客観性があって言われた側からすれば触りも良く、自分の事を考えてくれているとも受け取れます。それは人に物を売る為のトークには必要な要素である事も間違いはないことです。
相手が喜ぶ言葉、相手が言って欲しい言葉、相手が認められていると感じる言葉を言う。
「相手」を「お客様」と言い換えれば良くわかるでしょう。
でも、「相手」を「友達」「仲間」「家族」と言い換えた時はどうだろう・・・。
できれば、家族なら家族としての方向性や意識を持つ者として、友達や仲間もその似た意識や感性を持つ者として(当然1人1人は別の個性であることをへの客観性を保ちながら)悪びれない率直で素直な言葉の方が嬉しいし、そうあって欲しいと思うわけです。
注意点
その時と場合や相手によっては、個人的意見やパーソナリティを消して発言したり考えることが良い場合も当然在るので、そこでパーソナリティを貫くのはかなりの難易度とリスクは伴います。極端な言い方にすると、本音でぶっちゃけトークをしても愛される人間になるか、嫌われる覚悟を持つか、そのどちらかか両方です。
パーソナリティをだす生き方を選択したとしても、常に発信すると言うことではありません。いろんな物事に耳を傾けて受け止める姿勢は大切です。彼女や奥様や相手の精神状況においては、ただただ話しを聴いたり否定せずに受け止めてあげる事が必要な時もあるのは忘れてはいけませんよね。
自分としては、今までは企業人としての教育を踏まえた言動が中心にあったので、少しバランスを整えようと思ったわけです。今の私には、極端に尖って生きるつもりがないのです。
まとめ
なかなか、我が儘にちゃんと生きるのは難しそうだな。嫌われる覚悟がないと言われそうだ・・・。でも、そこ開き直るのもちょっと違う気がするしな。多少迷惑掛け合いながら、お互い我が儘にいれる人達が少しでも多く出来るとよいな~って感じかな。
《こちらも合わせてお読みください》
→Mellow Breath(メローブレス)の使い方
→編集部NOTE : メローブレス 3つの裏テーマ